新しい知的エリート支配『専門家と庶民の関係について』
かつて、資本主義と共産主義が勢力を争っていたわけですが、ソ連崩壊後に共産主義が破れました。
矛盾を抱えながらも市場メカニズムにより自律分散的にリソース再分配する資本主義と比べて、選ばれた知的エリートが中央集権的にリソース再分配を行う仕組みに持続性がなかったからです。
共産主義の崩壊後は、共産国家の看板を掲げたままま、実質的な市場経済へと移行していきました。
資本主義は共産主義に勝ち、今でも続いていますが、民主主義においては、大衆の衆愚化と、それに迎合するポピュリズム政治家の台頭で、綻びが生じ始めています。
その隙間を埋めるかのように『専門家』と、呼ばれる、知的エリートの存在感が増している気がします。
専門家は、大衆にも支持されており、またそれ故に政治家も無視できません。今のコロナ分科会と政治家の力関係などを考えるとわかると思います。
一方で、専門家は、教育や子育てのあり方、人権や娯楽のあり方にまで、口を挟んできています。
専門家の声が大きくなり、普通の人達が、良心と経験の感覚で言葉を述べたり、行動しにくくなってきている気がします。
例えば昔の『おばあちゃんの知恵袋』的な経験論からなるアドバイスの多くは、専門家のジャッジではトンデモと判断される事も多いでしょう。
私は専門家の判断には、盲点があると考えていています。
それは専門家は専門の範囲でしか認知の焦点が合っていない。
それゆえに、その範囲外の出来事との因果関係を含む『総和』については、
ひどく愚かな判断をすることが多いわけです。
これは、専門家に独特の認知視野の狭さを持つ人が多いことも関係しているとこ思います。
こういうタイプの人の特徴としてシングルフォーカス、中枢性統合の問題があります。
限られた範囲にしか認知の焦点が合わず、それゆえに記憶力が高かったり、
狭い範疇での因果関係の推論が得意だったりします。いわゆる、アルゴリズム思考です。
その一方で、社会全体の総和的な利得や因果関係の想像が苦手だったりします。
歴史的に見ると、このアルゴリズム思考の弊害による悲劇は、数えたらきりがないのです。
私は、私達『普通の人』が良心と経験の範囲で物事を述べたり、行動する試行錯誤のプロセスは、ある程度は重要だと考えています。
庶民が、もちろん必要な時、困ったときには、専門家の助けを借りながらも
人が大きく道を踏み外さず、それでいて小さく間違えながらも試行錯誤することが、社会全体を致命的な方向に向かう事に抗う唯一の道だと考えています。
おそらくは、旧共産圏のエリート支配による再分配システム長く続かなかったように、新しいエリート階層である専門家の支配も、持続不可能な欠点を持つと考えています。
本来、専門家とは、時に愚かな、それでいて総和としては豊かな生きる意味を持つ、人々の営みを、大きく致命的な間違いを侵さないように
遠くから見守り、手を差し伸べる役割なのです。
自ら旗を立てて、大きな声で扇動するのではなく。